2017年11月17日

SD early days

ネット情報/音源でいくつか気になったのが「初期スティーリー・ダン」のこと。Revisited.. 追憶のSDハイウェイ。

まずは出会いの場所。ニューヨーク州の単科大学である Bard College 。亡くなったベッカーは1950年生まれと、結構若かった。1〜2才年上のフェイゲンが校内でジャズかましてたベッカーに気付いて声をかけたとある。1967〜8年か。
 その場所を見てもらいたい。ニューヨークといってもマンハッタンからは北上すること3時間ぐらいか、かなり田舎。ハドソン川を越えた先にあるのが「ウッドストック」。

 SDはかなりティンパンアレイ色の濃いところから出てきた。ウッドストックとティンパンアレイの両色を持つ者といえばトッド・ラングレン。SDとトッドが絡んでいておかしくない気もするが、記憶では無かったが。
 しかし唯一、フェイゲンと絡むウッドストックは奥さんのリビー・タイタス。リビーの前夫はリヴォン・ヘルムであり、自身SSWでアルバムも出したリビー の、ウッドストックを代表するSSW=エリック・カズとの共作は数多のカヴァーを生んだ名曲 "love has no pride" 。

もとい、バード大のちょい南町が…そう「バリータウンから来た男」。


まっぷbard college.jpg



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(修正)バード大でベッカーとフェイゲンのふたりは「Sowing Wild Oats 101」という授業を専攻していたそうな。フェイゲンは、学生の休憩教室から聞こえてきた "howling wolf" に反応…それはエピフォンを弾くベッカーだった、と。

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ベッカーとコンビを組んだフェイゲン、目指すは音楽の道。学業はどうなったか、中退なのかどうかよく知らないが、勉学より音楽だった様子。それもプロ。ここで疑問、ミュージシャンになりたかったか裏方になりたかったか。ふたりでソングライティング開始。ここがまずティンパンアレイっぽいところ、「ふたりのチーム」。
 フェイゲンは自信家であり、かつ悲観的だったのではと想像したり。誰よりクールな曲が書けるオレ様なのだ…が、この曲が一般に受けるだろうか/このルックスはダメだろ/この声もダメじゃねぇの?… Upside Down 、SDの初期のゴタゴタはこのフェイゲンのメンタルに尽きる…ような。

それはともかく、ふたりは音楽で飯を食うべく頑張る。go to NY Tin-Pan Alley _ ティンパンの大御所レイバー=ストラーの持ち駒だったジェイ&アメリカンズのバック仕事へ潜り込み。それと同時期かちょいと前か_大きな出来事があった、初録音。
 バード大在学時にも遊びバンドはいくつかやっていた二人で、そのひとつがチェヴィ・チェイス(TV "saturday night live" からブレイクしたコメディアン)がドラマーだった The Leather Canary …チェイスがらみでよく知られるところ。そしてテレンス・ボイランも学生仲間だったらしい。
 アサイラムからアルバムを出したSSWとして知られるボイランだが、早熟のミュージシャンだった。兄がジョン・ボイラン_カントリー系のプロデューサーで有名な人。兄弟は68年に The Appletree Theatre 名義でプロデビュー、 Verve Forecast レーベルからLP(ラリー・コリエル/エリック・ゲイル/チャック・レイニーらがバック!)を出している。テレンスはソロ・コンタクトを同レーベルと結び、69年に『別名ブーナ=x( Alias Boona / Terry Boylan )を発表。このアルバムにベッカー(ベース/ギター)とフェイゲン(オルガン/ピアノ)が参加している。ディラン・カヴァー1曲で残りすべてブーナのオリジナル、残念ながらベッカー/フェイゲン作は収録されていない。しかしこのアルバムを持ってNYで売り込みを掛けたというから、二人にとってプロのレコーディングを経験したことは大きな自信になったことだろう。


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NYマンハッタンへ戻ったベッカー/フェイゲンのコンビはジェイ&ジ・アメリカンズ仕事を、どういうコネか?_ゲット。とはいえヒット連発は昔のこと、サイケからヘヴィなロックへ様変わりのなかではもはや old shcool pops でジリ貧期。東海岸の小さめのハコを流す程度だったのでは。ふたりは正式メンバーとなったわけでなく、営業ライヴとレコーディングに関わったらしい。
 69年の最後のトップ20ヒットはスペクター・クラシックの "walkin' in the rain" 、そしてその収録LP『wax museum』、ふたりは演奏に加わっているらしいが、Tristan Fabriani / Gus Mahler の変名を使ったそう。意図はよく分からない(学生だったので名を出せなかったか、バンド状況からわざわざ出すまでもないと判断したとか…)。
 この最後期アメリカンズのプロデュースがトーマス・ジェファーソン・ケイだった。その後、ケイは非常にSDカラーの濃いアルバムを2枚出す。プロデュースがゲイリー・カッツ/エンジニア、ロジャー・ニコルズ。ベッカー/フェイゲンは演奏、コーラスに曲の書き下ろしまで。デヴィッド・パーマー、ジェフ・バクスターも。その他のセッションメンバーもSDとかぶる_つまりは、サンタモニカの Village Recorder でSDが録音をしている同時期、たぶんセッションの合間にケイの録音もしていたということと見た。そして重要なのは、ケイの2作でフルで活躍したギタリストがリック・デリンジャーなこと。

 個人的に確信しているんだが、ドナルド・フェイゲンが信頼していたギタリストは三人だけ。ウォルター・ベッカーも当然入るがここでは除く、デニー・ダイアス/エリオット・ランドール/リック・デリンジャーの三人。カールトンもリトナーもグレイドン、ディーン・パークスらは優秀だがあくまでトラ、駒のひとつであって適材適所でハマる仕事をしてくれればOK…の存在かと。
 まずダイアスは、唯一最後(『ガウチョ』を最終盤とする)までベッカー/フェイゲンに付き合ったプレイヤー。いやいや、『ガウチョ』ではお役御免、参加してないでしょ_? たしかにそうだがね。ただし、ひとりふたりとメンバーを切っていって最後にはダイアスも…そうじゃないと思うわけで。ダイアスはいわばスティーリー・ダンの結成者。ベッカー/フェイゲンとは同等の、いやふたりには先輩格だったはず。なので『ガウチョ』セッションとて声を掛けていないわけはない。しかし思うに、ダイアスは釣でもしていて急にヒキが良くなったから予定変更…「今回は俺、釣に夢中だから行けんワ…」の電話一本で済ませたんじゃないか、そんな想像すらできる。この人はロック・スターなど端から眼中になかったはず、たまたまジャジーでクールなバンドでもやろうと決めたときに出会ったベッカー/フェイゲンと意気投合しただけだ。他のバンド活動もなければセッション参加も皆無。あくまでもベッカー/フェイゲンがやりたいようにしているのを傍観/サポートの位置に自分を置いていたのだろう。
 ふたりがジェイ&アメリカンズに関わりだした頃に、NYはロングアイランドの Hicksville 在住のギタリスト Denny Diaz が The Village Voice 誌に出したメンバー募集:
"Looking for keyboardist and bassist. Must have jazz chops! Assholes need not apply"
「ジャズの心得あるキーボード/ベース求む。使えねえ奴は御免」
こりゃオレら以外にいねぇ〜べ、とベッカー/フェイゲンは思ったことだろう、ダイアスにコンタクトして、まずはジャムるところから始まり。ちなみに "Diaz" が本名か、SDのアルバム以降は "Dias" となっている。

ダイアス、セッション無しと書いたが、1枚だけあった_たぶんこれだけだろう。79年の英国盤で『Flying Home / Summer』(touchstone sound recordings BBT-113)
「サマー」というバンドのようだがそうでなく、企画物。This special benefit album features... の文字もあるから何かのベネフィット企画のようだが詳細不明。仕切りが Sammi Abu …UKレゲエの人物? よく分からない。ただし結構なメンバー参加:ドラムが、ジェフ・ベックのバックで活躍した Richard Bailey で、ベースに当時ミック・テイラー・バンドだったクマ原田。オシビサのギタリストや、コーラスにマキシン・ナイチンゲール/P. P. アーノルドも。録音がロンドンと米西海岸。この盤に、「スティーリー・ダンの」と但し書きでなぜか Denny Diaz の名が(ダイアスでなくダイアズ名義)。それを見て一応は買った次第_が、内容はかなりプア…。


summerLP.jpg



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「リキの電話番号」… "Rikki don't lose that number" の邦題だったが、これはおかしい。 リキの番号は問題ではない_「リッキ、この番号をなくさないでくれヨ」なのだから。リキでなく相手の番号の話。この歌に関してむか〜しどこかで読んだ逸話、このリキはリック・デリンジャーという話。別話も多いから信頼おけないかもしれない、しかし当方としてはこれでいいのだ_デリンジャーがらみと受け取っている。
 フェイゲンの贔屓のギタリストだったリック・デリンジャーだが、かなりルーズ。セッション毎に声を掛けるが来たり来なかったり。フェイゲンからは電話してもまず出ない。そこでフェイゲン、顔を見せたリックに…「なあリック、お前さんから俺に定期的に電話を掛けてくれよ。いいかい、これ_俺の電話、この番号をなくすなよ!」と言った…か、言わなかったか…。まあ言ったと当方は信じて、この時に曲の構想をフェイゲンは得た、と。

ベッカー/フェイゲンがアメリカンズにからんでティンパン界隈で働き出すより数年早く、デリンジャーはティンパンの雄だったバート・バーンズに見いだされてデビューだった(正確には「見いだされて」ないが)。
 64年の Atlantic シングル "my girl sloopy" 、ベテラン黒人グループ The Vibrations 盤はバート・バーンズ(&ウェス・ファーレル)作・プロデュース。チャート26位とスマッシュヒットだったが、バーンズは満足せず。翌年に自身で興した新レーベル BANG (バーンズ/アーメット&ネスイ・アーティガン/ジェリー・ウェクスラーの頭文字4文字から:ならば最後は「J」でしょ?_いや、Gerald Wexler )、そのバング・レーベルから再度仕掛けることを思いつく。そこでレーベルの裏方をやりながら The Strangeloves なるでっち上げバンドでヒットも出していた Feldman, Goldstein, Gotfehrer 三人チームでのリリースを考えた。が、三人は拒否。そのかわりに連れてきたローカル・バンドがマッコイズ。なんでやねん?と、バーンズはやけくそでリーダーのリック・ジーリンガーの名をレーベル名(=銃声)にかけてデリンジャーと変え(たと思う…まず間違いない!)、シングル・リリース。見事全米1位となったからフェルドマンらも胸をなでおろしただろう。
 ティンパン界隈では先輩格だったデリンジャー、フェイゲンとはどこかで接点があったのだろう。フェイゲンはSDセッションにリックを呼ぶ。あまり多くの参加がないのはデリンジャーがソロ活動に重きを置きだした頃と重なったからだろう。2枚目『エクスタシー』の "show biz kids" でスライドを弾くが、これはデリンジャーがファーストソロ『all american boy』をコロラドのカリブーランチで録っていて、SD録音のベース基地であるサンタモニカ(の Village Recorder)へ来られない_そこでフェイゲン、わざわざマスターテープをコロラドまで送付しスライド・パートだけ重ねさせた1曲。これからしてもふたりの関係が垣間見える。

(蛇足:ヴァイブレイションズの "my girl sloopy"_当方デザインによる『500 Atlantic R&B/Soul singles vol. 1』CDに収録)

<つづく>


SD_showbiz.jpg







posted by denny-0980 at 10:48| Comment(0) | Assorted | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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