2019年04月08日

Albert Bros.

デモって_つづき。
インタビュー、ピート・カー以外でもマッスル四人衆からデヴィッド・フッド/ジミー・ジョンソン。サンドリンはないがポール・ホーンズビィ。それとロン&ハウィ・アルバート兄弟も登場。
フッド/ジョンソンは若干口が重い感あり。The FAME gang(フェイム・リズム・セクション)としてふたりはデュアンと1年半ほどか同じ釜の飯を食った仲ではあるが…当時を回想してのデュアンの言葉を雑誌だったか、読んだ記憶がある。「やつら(セッション・ミュージシャン)はセコいのばっかりでね、誰かが新車を買ったと見ればすぐにオレもオレもと同じ車に乗ってやがる。音楽よりも車だ冷蔵庫だクーラーだ…音楽的な向上心てのが無いんだな。オレは違うよ、いつまでもこんなところにゃいるつもりはない」。それを思い出してか、若干反論気味のフッドだが。
ホーンズビィ、結成前夜からデュアンの死まで、オールマンズの長く重要なパートナーであったから貴重な証言だろうけれど、いかんせん口ごもった語りは聞き取れない。ほぼ何言ってるか分からなかったので残念。
Ron & Howart Albert brothers。オールマンズ『idlewild south』『eat a peach』のエンジニア。収録すべてではなく、クライテリア録音曲。フロリダ州マイアミのスタジオ、Criteria Studio のハウス・エンジニアだった兄弟。デュアンの知名度を上げる要因のひとつがご存じ『レイラ』への客演。英国人の見果てぬ夢?_スワンパーになりたい!を、デイヴ・メイスンやウィンウッドら同様に「こじらせて」いたクラプトンが、ゴードン/ホィットロック/レイドルを引き抜いて勝負をかけたデレク&ドミノーズ。アルバム録音は、既にクリーム時代から馴染みがあったクライテリア(それとトム・ダウド・プロデュース)。しかしこのインタビューまでアルバムがアルバート兄弟のエンジニアリングと僕は知らなかった。それは当時買った日本盤の裏ジャケにはクレジットが無かったから。今日まで日本ポリドールが、曲名からパーソネルまで一切を「わざわざ」消していたことを知らなかった。(なぜそんなことをしたのだろうか?) 考えてみればクライテリア録音なら兄弟がエンジニアで順当なんだが…。米盤クレジットをみるとエンジニアはロン&ハウィ/チャック・カークパトリック/カール・リチャードソン、そしてスタジオ設立者のマック・エマーマン。フル・スタッフとは力の入った録音であったな。

Layla-credit.jpg


前にも書いたことだが、サザン・ロックを語るときに重要なのが3州の絡み_フロリダ/ジョージア/アラバマ。なかでフロリダは、カリブ諸国への玄関口からラテン・イメージ/避寒地イメージが強くて「南部感」が薄いが、実は70年代サザンロッカーの多くがフロリダから出てきている事実は要チェック。ジョージア州のスタジオ・ワンで活躍したアトランタ・リズム・セクション(ex-クラシックス・フォア)の主要メンバーもフロリダ出身。オールマンズの結成に参加したブッチ・トラックスは後 Cowboy のスコット・ボイヤー、デヴィッド・ブラウンと 31st of February をやっていたがこのトリオはジャクソンヴィル出身。同様にレナード・スキナード、ジャクソンヴィルの高校生バンドだった。
ヘンリー・ストーン/スティーヴ・アレイモら、マイアミ・サウンドの大立者が実は後に花咲くサザン・ロックと深い関わりがあったことも、ハワード・アルバートのインタビューに出てくる。

posted by denny-0980 at 11:51| Comment(0) | Muscle Shoals | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月07日

The 5 Men-Its

デモって…。

allmanDVD.jpg

Song of the South : Duane Allman and the rise of the Allman Brothers Band

デュアン/オールマンズのファンにはまったくの期待外れ…な作品なれど、マッスルショールズ・マニアには、それと僕以外にいないだろうピート・カー・マニア、嬉しい映像作だった。字幕なしでインタビューの3割しか分からなかった…のに、だ。
「オールマンズ結成前夜」を詳細に追っているところがミソ。DVDへのコメントに「既出写真ばかり」なんてあったがそれはオールマンズ・ファンとしての言葉、「前夜」を知らぬ輩。オールマン兄弟の幼少期やデイトナ時代の写真には見たことのないのがずいぶんとあった_レアフォト。
禿げ上がったピート・カーのインタビューがかなり長尺で嬉しい。長い理由はオールマン兄弟との付き合いが深かったから。ピートは地元デイトナで15才のときにデュアン/グレッグ兄弟と出会っている。3〜5歳年上の兄弟ふたりは、ナッシュヴィル生まれで幼いときにフロリダ州デイトナに越してきていた。いくつかのバンドを経て The Allman Joys としてセミプロ活動時、その楽屋へ押しかけたピートは2人の前でギターを弾くと、デュアンに「なかなかヤルじゃないか」と認められる。ジョイズを解散して、The Hourglass としてロスへ出て本格始動する兄弟だが、そのセカンドLPにベースとして参加したのがピート(ファーストでのベーシストのレブロンが遁走したので急遽代役)。
して、そのアワーグラスなんだが、このビデオでやっと分かったことがあった。まあ重箱隅の些末話_。デイトナで、ジョイズと対バンしていたのが The 5 Men-Its というバンド。その音源も含むCDが05年に出た(#126参照)が、それでもマッスルやオールマン兄弟との関係は分からないままだった。第一にその読みが_「ファイヴ・メン・イッツ」ではなかった。このビデオでやっと得心ス。「ファイヴ・ミニッツ」が正解だったんだ。これで5分≠セったわけ。五人組だから。で、05年CDだがジャケがこれ:

fred_styles.jpg

ドラムのバスドラが「時計」になっていたのはそういうことだったか。そのドラマーはジョニー・サンドリンで、ギターがエディ・ヒントン、キーボードがポール・ホーンズビィ…それが5ミニッツだった。このバンドからサンドリンとホーンズビィを引き抜いてオールマン兄弟は The Hourglass という五人組バンドで、ニッティ・グリティ・ダート・バンドのジョン・マキューエンの兄キ(バンドのマネージャ)の知己を得て Liberty レコードのコンタクトを取り付け、花のロサンゼルスへ出ていった、という顛末。サンドリンはオールマンズのプロデューサー、ホーンズビィはマーシャル・タッカー・バンドなどを手掛ける_ふたりは実質的に Capricorn レーベルを音楽面で仕切ったが、それは後々のこと。勢い勇んで乗り込んだロスだったが、時代の音楽傾向/レーベルの思惑にマッチしなかったアワーグラスは辛酸をなめることに_そこらをこのビデオはかなり詳しく語っている。失意の兄弟は、デイトナに戻ったデュアンとロスに残ったグレッグに分かれる。デュアンはギターを買われてアラバマ・マッスルのフェイムにスタジオ仕事を見い出す。そのなかで出会ったフィル・ウォルデン(オーティスのマネージャだった)がデュアンを見初めて「ソロ」で売り出すこと、およびジョージアの田舎町メイコンでレーベル設立を計画する。話にデュアンは乗るがソロは拒み、弟を呼び寄せてバンド結成=オールマンズ誕生と。ヒントンは既にフェイムのギタリストになっていた。サンドリンとホーンズビィもレーベル話に乗って、座付きバンドの Macon Rhythm Section(サンドリン/ホーンズビィ/ピート・カー/ロバート・ポップウェル)として再始動。
(蛇足:後にクルセイダーズ参加で知られる敏腕ベーシスト、惜しくも亡くなったロバート "POPS" ポップウェルの業界始めがこのメイコンでの裏方。デイトナ生まれでピートとは同い年。十代のときからの音楽仲間だっただろう)

つづく
posted by denny-0980 at 12:41| Comment(0) | Muscle Shoals | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする