http://music-calendar.jp/2017123001
これは一昨年となる1年ちょい前の記事だが、ほんとに業界の人…それもアメリカ音楽業界とも繋がった人であることに驚きますワ。ジミー・ハスケルとかスティーヴ・バリという名前は、僕にとっては「ジャケ買い」対象人名以外のなにものでもなかったから。こういうポップスの世界でも裏方とガチに付き合っていた日本人がいたんだなァという思い。
バリの名前は当然PFスローンとともに、それとランバート=ポッターなどとABC / Dunhill 盤のクレジットで見るそれ。アレンジャーならばニック・デ・カロやペリー・ボトキンなどもエサ箱でのレコめくりで探した。
ラジオのなかで、小田和正にパブロ・クルーズのエンジニアを紹介したという話が出てくる。それは Bill Schnee で、小田の盤は『K. ODA』という86年/ファンハウス盤。ポーカロ/ハンゲイトというTOTOのリズム隊をバックにしたロス録音。実はこの盤のデザイン・クレジットが KOSH となっていることを数年前に発見して驚かされたのだ。それで当時のファンハウスのデザイン室チーフがいまも面識あるのでメールで伺った_デザインに関してもまったく日本側で関知することなかった(US制作であった)ので、なぜコッシュが起用だったかは分からない_とのことだった。しかし今気付いたのは、ビル・シュネイはかなりの売れっ子で関わった盤は相当数であるが、なかで Planet Records 盤のほとんどでその名が見えること。プラネットは、かのリチャード・ペリーが立ち上げた(が、短命に終わる)レーベルでコッシュがほとんどのデザインを担当していた。たぶんフリーの身でありながらこことはハウス・デザイナーとして契約していた…と想像する。小田盤、録音がシュネイの個人スタジオとある。シュネイからのオファーかどうかは定かでないが、コッシュとシュネイの関連を強く感じる。それでもこのジャケ仕事はコッシュらしさは皆無なんだが…。無理にこじつければ、コッシュ仕事でも傑作だった78年盤、ステファン・ビショップの『Bish』を踏襲したモノクロ写真使い…か。
