2021年12月31日

Sock-It-To-Me!!! Info.

★17_Nov. :
「ソフト・ロック」の牽引者であり、ファンジン『VANDA』をともに作っていた盟友の佐野邦彦さんが亡くなりました。2014年5・7月にご自宅へ伺っての、当方とのトークを以下に。
http://www.sakatomi.com/framefirst.html

★17_Jul. :
『500 Atlantic R&B/Soul singles 1964-1972』
アトランティック70周年_シングル音源500曲を2枚組CDで
全10枚、リリース開始。graphic work by denny-0980
http://wmg.jp/artist/500atlantic/discography.html

★17_Jun :
新規ブログ_LP「内側のみ」『Look Inside』
画像は_右クリック『新しいタブで画像を開く』して、最大サイズ≠ナ
ご覧いただきますよう四四七二
http://denny-inside.seesaa.net/

★17_may :
『ソフト・ロック・ナゲッツ』4W_ 5/31
design by denny-0980
http://wmg.jp/artist/softrocknuggets/

★16_dec:
最近音楽誌でよくはちみつぱいが取りあげられているが、そのぱいのメンバーであった渡辺勝さんらとの『トーク・セッション』。
せっかく貴重な70年代日本ロック話を聞かせてもらい、サイトに上げながらも当方の力不足で内輪受けに留まってしまったのがなんとも惜しいと、再読してみて痛感。とくに斉藤哲夫さんのロング・トークなどはリアルな当時の逸話満載。ほかにもトーベンさん、洪栄龍さん、永井充男さんら_そのほか、ミュージシャンのみならず音楽関係の方々に興味深い話を聞けたと思うので、ぜひ時間のあるときに再読、もしくはあらたな読者となっていただきたく…。四四七二。
  D's Talk Sessions

★01_start:
http://bit.ly/2pHYyDS
個人的に深掘りしている音ネタは『マッスル・ショールズ』。
+
アラバマ州の同地にある Muscle Shoals Sound Studios での録音盤と、
そこで活躍したセッション・ギタリスト Pete Carr 参加盤を探して
2001年から紹介しておりマッスル。
001枚目〜127枚目
http://www.sakatomi.com/petecarr/
128枚目〜157枚目
http://whink.seesaa.net/
+
158枚目からはこのブログで掲載中:カテゴリcheck →


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2017年12月10日

SD early days

ネット情報/音源でいくつか気になったのが「初期スティーリー・ダン」のこと。Revisited.. 追憶のSDハイウェイ。

まずは出会いの場所。ニューヨーク州の単科大学である Bard College 。亡くなったベッカーは1950年生まれと、結構若かった。1〜2才年上のフェイゲンが校内でジャズかましてたベッカーに気付いて声をかけたとある。1967〜8年か。
 その場所を見てもらいたい。ニューヨークといってもマンハッタンからは北上すること3時間ぐらいか、かなり田舎。ハドソン川を越えた先にあるのが「ウッドストック」。

 SDはかなりティンパンアレイ色の濃いところから出てきた。ウッドストックとティンパンアレイの両色を持つ者といえばトッド・ラングレン。SDとトッドが絡んでいておかしくない気もするが、記憶では無かったが。
 しかし唯一、フェイゲンと絡むウッドストックは奥さんのリビー・タイタス。リビーの前夫はリヴォン・ヘルムであり、自身SSWでアルバムも出したリビー の、ウッドストックを代表するSSW=エリック・カズとの共作は数多のカヴァーを生んだ名曲 "love has no pride" 。

もとい、バード大のちょい南町が…そう「バリータウンから来た男」。


まっぷbard college.jpg



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(修正)バード大でベッカーとフェイゲンのふたりは「Sowing Wild Oats 101」という授業を専攻していたそうな。フェイゲンは、学生の休憩教室から聞こえてきた "howling wolf" に反応…それはエピフォンを弾くベッカーだった、と。

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ベッカーとコンビを組んだフェイゲン、目指すは音楽の道。学業はどうなったか、中退なのかどうかよく知らないが、勉学より音楽だった様子。それもプロ。ここで疑問、ミュージシャンになりたかったか裏方になりたかったか。ふたりでソングライティング開始。ここがまずティンパンアレイっぽいところ、「ふたりのチーム」。
 フェイゲンは自信家であり、かつ悲観的だったのではと想像したり。誰よりクールな曲が書けるオレ様なのだ…が、この曲が一般に受けるだろうか/このルックスはダメだろ/この声もダメじゃねぇの?… Upside Down 、SDの初期のゴタゴタはこのフェイゲンのメンタルに尽きる…ような。

それはともかく、ふたりは音楽で飯を食うべく頑張る。go to NY Tin-Pan Alley _ ティンパンの大御所リーバー=ストラーの持ち駒だったジェイ&アメリカンズのバック仕事へ潜り込み。それと同時期かちょいと前か_大きな出来事があった、初録音。
 バード大在学時にも遊びバンドはいくつかやっていた二人で、そのひとつがチェヴィ・チェイス(TV "saturday night live" からブレイクしたコメディアン)がドラマーだった The Leather Canary …チェイスがらみでよく知られるところ。そしてテレンス・ボイランも学生仲間だったらしい。
 Asylum レーベルからアルバムを出したSSWとして知られるボイランだが、早熟のミュージシャンだった。兄がジョン・ボイラン_カントリー系のプロデューサーで有名な人。兄弟は68年に The Appletree Theatre 名義でプロデビュー、 Verve Forecast レーベルからLP(ラリー・コリエル/エリック・ゲイル/チャック・レイニーらがバック!)を出している。テレンスはソロ・コンタクトを同レーベルと結び、69年に『別名ブーナ=x( Alias Boona / Terry Boylan )を発表。このアルバムにベッカー(ベース/ギター)とフェイゲン(オルガン/ピアノ)が参加している。ディラン・カヴァー1曲で残りすべてブーナのオリジナル、残念ながらベッカー/フェイゲン作は収録されていない。しかしこのアルバムを持ってNYで売り込みを掛けたというから、二人にとってプロのレコーディングを経験したことは大きな自信になったことだろう。


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NYマンハッタンへ戻ったベッカー/フェイゲンのコンビはジェイ&ジ・アメリカンズ仕事を、どういうコネか?_ゲット。とはいえヒット連発は昔のこと、サイケからヘヴィなロックへ様変わりのなかではもはや old shcool pops でジリ貧期。東海岸の小さめのハコを流す程度だったのでは。ふたりは正式メンバーとなったわけでなく、営業ライヴとレコーディングに関わったらしい。
 69年の最後のトップ20ヒットはスペクター・クラシックの "walkin' in the rain" 、そしてその収録LP『wax museum』、ふたりは演奏に加わっているらしいが、Tristan Fabriani / Gus Mahler の変名を使ったそう。意図はよく分からない(学生だったので名を出せなかったか、バンド状況からわざわざ出すまでもないと判断したとか…)。
 この最後期アメリカンズのプロデュースが Thomas Jefferson Kaye だった。その後、ケイは非常にSDカラーの濃いアルバムを2枚出す。プロデュースがゲイリー・カッツ/エンジニア、ロジャー・ニコルズ。ベッカー/フェイゲンは演奏、コーラスに曲の書き下ろしまで。デヴィッド・パーマー、ジェフ・バクスターも。その他のセッションメンバーもSDとかぶる_つまりは、サンタモニカの Village Recorder でSDが録音をしている同時期、たぶんセッションの合間にケイの録音もしていたということと見た。そして重要なのは、ケイの2作でフルで活躍したギタリストがリック・デリンジャーなこと。

 個人的に確信しているんだが、ドナルド・フェイゲンが信頼していたギタリストは三人だけ。ウォルター・ベッカーも当然入るがここでは除く、デニー・ダイアス/エリオット・ランドール/リック・デリンジャーの三人。カールトンもリトナーもグレイドン、ディーン・パークスらは優秀だがあくまでトラ、駒のひとつであって適材適所でハマる仕事をしてくれればOK…の存在かと。
 まずダイアスは、唯一最後(『ガウチョ』を最終盤とする)までベッカー/フェイゲンに付き合ったプレイヤー。いやいや、『ガウチョ』ではお役御免、参加してないでしょ_? たしかにそうだがね。ただし、ひとりふたりとメンバーを切っていって最後にはダイアスも…そうじゃないと思うわけで。ダイアスはいわばスティーリー・ダンの創設者。ベッカー/フェイゲンとは同等の、いやふたりには先輩格だったはず。なので『ガウチョ』セッションとて声を掛けていないわけはない。しかし思うに、ダイアスは釣でもしていて急にヒキが良くなったから予定変更…「今回は俺、釣に夢中だから行けんワ…」の電話一本で済ませたんじゃないか、そんな想像すらできる。この人はロック・スターなど端から眼中になかったはず、たまたまジャジーでクールなバンドでもやろうと決めたときに出会ったベッカー/フェイゲンと意気投合しただけだ。他のバンド活動もなければセッション参加も皆無。あくまでもベッカー/フェイゲンがやりたいようにしているのを傍観/サポートの位置に自分を置いていたのだろう。
 ふたりがジェイ&アメリカンズに関わりだした頃に、NYはロングアイランドの Hicksville 在住のギタリスト Denny Diaz が The Village Voice 誌に出したメンバー募集:
"Looking for keyboardist and bassist. Must have jazz chops! Assholes need not apply"
「ジャズの心得あるキーボード/ベース求む。使えねえ奴は御免」
こりゃオレら以外にいねぇ〜べ、とベッカー/フェイゲンは思ったことだろう、ダイアスにコンタクトして、まずはジャムるところから始まり。ちなみに "Diaz" が本名か、SDのアルバム以降は "Dias" となっている。

ダイアス、セッション無しと書いたが、1枚だけあった_たぶんこれだけだろう。79年の英国盤で『Flying Home / Summer』(touchstone sound recordings BBT-113)
「サマー」というバンドのようだがそうでなく、企画物。This special benefit album features... の文字もあるから何かのベネフィット企画のようだが詳細不明。仕切りが Sammi Abu …UKレゲエの人物? よく分からない。ただし結構なメンバー参加:ドラムが、ジェフ・ベックのバックで活躍した Richard Bailey で、ベースに当時ミック・テイラー・バンドだったクマ原田。オシビサのギタリストや、コーラスにマキシン・ナイチンゲール/P. P. アーノルドも。録音がロンドンと米西海岸。この盤に、「スティーリー・ダンの」と但し書きでなぜか Denny Diaz の名が(ダイアズ名義)。それを見て一応は買った次第_が、内容はかなりプア…。


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「リキの電話番号」… "Rikki don't lose that number" の邦題だったが、これはおかしい。 リキの番号は問題ではない_「リッキ、この番号をなくさないでくれヨ」なのだから。リキでなく話し手の番号の話。この歌に関してむか〜しどこかで読んだ逸話、このリキはリック・デリンジャーという話。別話も多いから信頼おけないかもしれない、しかし当方としてはこれでいいのだ_デリンジャーがらみと受け取っている。
 フェイゲンの贔屓のギタリストだったリック・デリンジャーだが、かなりルーズ。セッション毎に声を掛けるが来たり来なかったり。フェイゲンからは電話してもまず出ない。そこでフェイゲン、顔を見せたリックに…「なあリック、お前さんから俺に定期的に電話を掛けてくれよ。いいかい、これ_俺の電話、この番号をなくすなよ!」と言った…か、言わなかったか…。まあ言ったと当方は信じて、この時に曲の構想をフェイゲンは得た、と。

ベッカー/フェイゲンがアメリカンズにからんでティンパン界隈で働き出すより数年早く、デリンジャーはティンパンの雄だったバート・バーンズに見いだされてデビューだった(正確には「見いだされて」ないが)。
 64年の Atlantic シングル "my girl sloopy" 、ベテラン黒人グループ The Vibrations 盤はバート・バーンズ(&ウェス・ファーレル)作・プロデュース。チャート26位とスマッシュヒットだったが、バーンズは満足せず。翌年に自身で興した新レーベル BANG (バーンズ/アーメット&ネスイ・アーティガン/ジェリー・ウェクスラーの頭文字から:ならば最後は「J」でしょ?_いや、Gerald Wexler )、そのバング・レーベルから再度仕掛けることを思いつく。そこでレーベルの裏方をやりながら The Strangeloves なるでっち上げバンドでヒットも出していた Feldman, Goldstein, Gotfehrer 三人チームでのリリースを考えた。が、三人は拒否。そのかわりに連れてきたローカル・バンドがマッコイズ。なんでやねん?と、バーンズはやけくそでリーダーのリック・ジーリンガーの名をレーベル名(=銃声)にかけてデリンジャーと変え(たと思う…まず間違いない!)、シングル・リリース。見事全米1位となったからフェルドマンらも胸をなでおろしただろう。
 ティンパン界隈では先輩格だったデリンジャー、フェイゲンとはどこかで接点があったのだろう。フェイゲンはSDセッションにリックを呼ぶ。あまり多くの参加がないのはデリンジャーがソロ活動に重きを置きだした頃と重なったからだろう。2枚目『エクスタシー』の "show biz kids" でスライドを弾くが、これはデリンジャーがファーストソロ『all american boy』をコロラドのカリブーランチで録っていて、SD録音のベース基地であるサンタモニカ(の Village Recorder)へ来られない_そこでフェイゲン、わざわざマスターテープをコロラドまで送付しスライド・パートだけ重ねさせた1曲。これからしてもふたりの関係が垣間見える。


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ダイアス、デリンジャーと来て残るはエリオット・ランドール。当方、好きでね。ソロ4作『Randall's Island』『Randall's Island / rock and roll city』『Elliott Randall's New York』『Elliott Randall Guitar Archives vol. 1』_パーフェクトに押さえている輩が他にいますかいな、nobody but me... 。エリオット本人から「あんたはエラい!」とメールのひとつも貰いたいくらいだわ。
 そのきっかけは当然ながらSDアルバム/ファーストからであった。いや、シングル「輝く季節」をラジオで聴いたときからかな。なんにしろ、ランドールといえばスティーリー・ダン…本人サイトも一貫してトップに "Steely Dan's premier guitarist" と入れている(以前はいまよりずっとデカい文字で)。
 60年代後半からプロとしてNYで活動。その呼び方が消えつつあったろうがNY音楽界の大意としてのティン・パン・アレイ(ソロ3作目はティン・パンの総大将ドン・カーシュナーの Kirshner Records から出している)…ベッカー/フェイゲンとの付き合いは古い。サイトで曰く「おれがジェイ&アメリカンズの音楽ディレクターをちょいと努めた時期、その時に彼らに会い、それからの付き合いさ」。この後に語るヴァンス・デモから参加、音源としても残している。

ここでちょいと触れておきたいのは70年前後の東海岸ロック・シーン〜ボストンからNYにかけて。当たり前に数多のバンドがプロ/セミプロとして活動。小さめのハコで対バンすればそれとなく知り合うのは道理、メンバーの行き来も当然あったはず。ランドールのからみバンドとして Ten Wheel Drive というバンドがあった。Sha Na Na 、あのシャ・ナ・ナの…ほぼメンバーだった時期もあるようだ。
 スカンク・バクスターはボストンのカレッジを経てNYへ戻りプロとして Ultimate Spinach でデビュー。ジェームス・テイラーがダニー・クーチと Flying Machine で活動_NYでアル・ゴーゴニ・プロデュースでデモ録音。クーチがその後組むベースがチャールズ・ラーキーだが、ラーキーはSDメンバーになるデヴィッド・パーマーとともに、キング=ゴフィンのレーベル Dimention からシングルを出したバンド、The Myddle Class をやっていた。パーマーのその後のバンドは Quinaimes Band。SD初代ドラマー、ジム・ホッダーは Bead Game でデビュー。グリニッジ・ヴィレッジ界隈か、皆がしのぎを削っていたんだろう。そんななかに存在していたのか? デニー・ダイアスのバンド_ Demian 。

内容はさほどじゃないんだが、その頃のNY録音の1枚を紹介。
【Buzzy】'72 Kama Sutra
 バンドのようだがさにあらず、ソロ。バジー・ラインハートは、ジョン・セバスチャンのダチでやはりヴィレッジ界隈で活躍。ソロとしてアルバムをリリース(74年盤はマッスル録音だった)。この盤のメンバーは Peter Ponzol (sax, flute) Danny Trifan (bass) Luther Rix (dr.) Skunk Baxter (gtr) の固定バンド。ドラマーが Ten Wheel Drive から。ゲストに Mark "Moogy" Klingman 。ムーギーのソロはウッドストック関連盤として知られるが、このバジーの盤もミックスはベアズヴィル・スタジオでトッド・ラングレンが手掛けていた。ランドールと同様に、SDファンとなってからスカンクも贔屓のひとりだったが、ランドール/スカンクともにクレジット買いした盤でのギターはまあ「薄い」ものがほとんど! ふたりともSD盤での活躍はまず他で見られなかった。そのなかでこのバジー盤は、バンド固定ということでスカンクが珍しく「弾いている」。

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ランドールは知る人ぞ知る存在でさほど語られるプレイヤーではないが、これは意外だった_シュガーベイブ。CD化されたシュガー盤の山下達郎のライナーノーツで、ギタリスト村松邦男がバンド当時にひいきにいていたギタリストとしてランドールと名を挙げていた_。ランドールはイタロ・アメリカンとのセッションが多かった(シャ・ナ・ナはもちろん、ローラ・ニーロ/フェリックス・キャバリエ等)からかもしれない。

ランドール、オノヨーコ・バンドの一員として来日したことがある、はず。

エリオット・ランドールがギターを…
[Don Cooper/bless the childre] roulette 69
 tin cans and allaeyways_ https://youtu.be/Ma6YGUuTxNw
[Stu Nunnery] evolution 73
 the isle of debris_ https://youtu.be/hNEyzXpEGes
[Vicki Sue Robinson/never gonna let you go] RCA 76
 turn the beat around_ https://youtu.be/vz9pZW5OvM4
[J. Jocko/that's the song] kama sutra 75
 i'm gettin' over_ https://youtu.be/lC3PpGE5j0s

来日しサディスティック・ミカ・バンドにも「参加」したヴィッキの、唯一のヒット曲。ジョッコはシャ・ナ・ナのドラマーでソロ盤プロデュース/ソングライト/ギターをランドールが手掛けた。


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戻って。ベッカー/フェイゲン、ジェイ&アメリカンズとして活動しながらも売り込みに奔走。「ポップでなく」どちらかといえば奇異な楽曲はなかなか厳しかったが、それでもふたりの支援者に出会うことになる。ひとりは、当然ゲイリー・カッツ。もうひとりは…早々の出会いだった、ジェイ&アメリカンズのメンバーなのだから_ケニー・ヴァンス。ならばヴァンスはカッツに先駆けて、誰よりも早くにふたりの才能に惚れ込んだ男ということになる。しかし、その先は混迷?
 ともかく、ヴァンスはふたりのためにかなり尽力したようにみえる。デモ録音の仕切り、新たな仕事も与えた。今日まで溢れたまま…というか、ほぼ垂れ流しままなのが " pre-Steely Dan " 音源。デビュー以前の音は、80年代のアナログからCDとなっても英・米・日本で出しまくり。大半はブートもどき、怪しいレーベル。これが理解できない。音に関して妥協を許さない完璧主義のフェイゲンの現状黙認は何ゆえか。訴えようにも逃げるレーベルと諦めかもしれない。が、当方の想像は_ヴァンスとの縁切り土産ではないかと。数多いリリースもほとんどがコピー音源、となれば元は…ヴァンスとしか思えない。ヴァンスには「ベッカー/フェイゲン/ヴァンス」のトライアングルで成功…カッツの立ち位置は本来自分であった_の思いがあったのでは。ヴァンスとベッカー/フェイゲンの間に諍い、思惑違いがあったかどうか実際は知らないが…。

「プレ音源」_UTアップされているこの(ブート)CD2枚組、いまのところフル収録だろう、全28曲。当方もLP、CDで都合5枚買わされたプレ(アーリー)ワーク音源。
https://youtu.be/78lMuN8MiEA
 よく聴けば3パターンあることに気付く。A:自宅が事務所かでのキーボードの弾き語り(に、せいぜいベッカーの薄いハモり)/B:(アンビエンスからして)スタジオでの弾き語り/C:バンド演奏=スタジオ録音。
フェイゲン弾き語りは、デモとも呼べない単なる備忘記録のレベル。それでもSDとして完璧な音の構築に至る、最初期を知れる意味で興味深いし、まったくの naked からは lo-fi な魅力が溢れる。
後、SDとしてオフィシャルに録音したのは:
 charlie freak
 caves of altamira
 any world that i'm welcome to
 parker's band
 barrytown
 brooklyn
6曲。
うち、バンドでのきっちりしたデモは "brooklyn" のみ。ファーストアルバムではテンポを上げてデヴィッド・パーマーが歌ったが、この、地元NYはブルックリンへ思いを馳せたフェイゲンのゆったりした歌もランドールによるギター(ソロ、オブリ)も素晴らしい…断然こちらに軍配有りとファンの間で周知。


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 当方最初に買った盤がこれで_
【Becker & Fagen / the early years】 ('83 Aero Records)
NYのマイナーレーベルからだが、裏ジャケにケニー・ヴァンス自身でライナーノーツ、デザインが Elektra Records のハウス・デザイナーだった Bob Heimall 、疲れ切った顔だがジャケ写真は Marty Kupersmith 提供_マーティはヴァンスとともにジェイ&アメリカンズだったから、バンドのバック時代の二人ということだろう…かなり正規盤らしい仕様のLPだった。10曲収録、ヴァンスの仕切りによる「きっちり」したデモ音源はスタジオでのバンド録音なので前記「C」に当たる。
side A : brain tap shuffle / come back baby / don't let me in
  old regime / brooklyn
side B : mock turtle song / soul ram / i can't function
  yellow peril / let george do it
 all songs written by Becker/Fagen (except B1 by becke/fagen/Dodgson)

ライナーとしてヴァンスは_ふたりはバード大で出会って曲作りを始めたが、ティン・パン・アレイのブリル・ビルディング界隈で売り込むも苦戦/しかしバーブラ・ストライザンド盤に曲が採用された/"soul ram" の歌詞のなかから steely dan の言葉を選んでバンド活動を始める=Qなどを記している。ここに収録曲は 68〜71年の間に録音されたとも。
 曲毎のミュージシャンクレジットもある。さてこれが "Demian recording" と呼べるや否や。メンバーとして、ベッカー/フェイゲン/ダイアスを基本として drums : John Discepolo, John Mazzi / vocal & chorus : Keith Thomas / guitar : Elliott Randall ("brooklyn" only) となっている。キース・トーマスは old regime / soul ram / let george do it の3曲はリードで歌う。 "yellow peril" のみはまったく別物で、ドラムがヴァンスと記載されているがハイハットを打つだけでドラムと呼べる物ではない。10曲うち9曲が「C」バンド録音で、1曲のみ「B」ということ。レコードにするには曲が足りなかったので無理矢理入れ込んだか。ちなみにクレジットでは1曲のみとなっているランドールのギターだが、"don't let me in" もそうだろう。
 何度か資料で見たことなんだが、この時期にデニー・ダイアスは Demian というバンドを率いていたという。戻ってほしいのはダイアスの「メンバー募集」_キーボード/ベースを、と限定している。これは考えようによっては asshole だった二人のメンツを切って、あらたな募集をかけたとも見える。デミアンの再起と。たぶんその時点でデミアンは Dias, John Discepolo, Keith Thomas だったのだろう。ダイアスとしてはそこにベッカー/フェイゲンを加えたつもり…、しかし曲を書くし歌も歌う才能ある二人だった、庇を貸したら母屋を取られた形。ヴァンスはもともと「ふたりの才能」に賭けていたのだからバンドがなんであれ構わなかったことだろう、ライナーノーツに Demian の文字はまったく出てこない。しかしここでは便宜的に「C」をデミアン・デモとしておこう。
 上記の YouTube の28曲を聴いて、いくつか引っ掛かった。まず 07 undecided 。この曲が最新というべきか、過去のリリースでは出てこなかった曲。キース・トーマスが歌うあきらかなデミアン・デモ。しかし曲調はあまりにストレートでベッカー/フェイゲン作の気がしないが…。それと、05 sun mountain に驚く。手持ちとテイクが違う。
 83年のエアロ・レコーズ盤が「C」デミアン・デモであったのに対し、「A」「B」の備忘ラフ録り音源は85年のUK盤LPで聴けた。全16曲収録盤。

sunmountain.jpg

【Steely Dan/ sun mountain】('85 castle communications)
現在ではエドセル傘下で良質なリイシューCDを出しているキャッスルだが発足当時はこのような怪しい盤も出していた。人気にあやからんとずばりスティーリーダン名義盤に。ラフでプアな音源集であったが、しかし上記通りにプリミティヴ/素であるがゆえ、あらためてベッカー/フェイゲン曲に魅せられることになる。とくに好きなのがタイトル曲だった。ジャズ色のない、どちらかといえばカントリーロック的、ストレートなメロディラインに強く惹かれた。こういう曲は、デモとしての見せ球か_あえて「売れ線」っぽいのを提供するつもり、であったかもしれない。SDになっても1、2枚目ではこういうストレートな名曲があって、その意味でも当方は初期のバンド然とした時期が好みなのだ(とくにデビューシングル "Dallas / sail the waterway" がいいんだが…)。
 で、その "sun mountain" がこのUKアナログ収録はキース・トーマスが歌う「C」であるのに、ブート28曲でのそれはフェイゲンのピアノ弾き語り…聴いたことのないテイク、これは驚く。となると、まだまだ掘れば別テイクが出てくるのかもしれない。


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ケニー・ヴァンスはこれらのデモ音源を持ってブリル・ビルに掛け合ったンだろうか。反応はいまひとつだったか…。ヴァンスはサントラ仕事を探してくる。
『you gotta walk it like you talk it (or you'll lose that beat)』というB級映画、そのサウンドトラック仕事。71年9月封切り、後に売れたリチャード・プライヤーも出演らしいが公開時はほぼ話題にならなく終わった映画だろう。同年に Spark Records から出てたイラスト・ジャケット盤がオリジナルらしいが手持ちは78年の Visa Records /リイシュー盤。
produced by Kenny Vance
bass/guitar : walter becker, all keyboards : donald fagen
guitar/perc. : denny diaz, drums : john discepolo
とあるからあきらかな「デミアン」録音_。全8曲うち、歌詞があるのは4曲。ヴァンスが2曲/フェイゲンが1曲歌う(1曲は不明)。あきらかなサウンドトラック然の駄曲もあるが全体には悪くない_聴ける盤。作も、ベッカー/フェイゲンがメイン(そこに共作が何曲か)。

SD-soundtrack.jpg


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ヴァンス奔走の甲斐も無くベッカー/フェイゲン楽曲の売り込みは芳しくなかったのだろう。そこで登場…というわけではなく、同時進行的にB/Fはもう一人の理解者ゲイリー・カッツに出会う。
 前記、ふたりの楽曲が「バーブラ・ストライザンド盤」に採り上げられる_これは71年盤『barbra joan streisand』に収録された "i mean to shine" 。
https://youtu.be/O6eonE_qF08
ヒネりがなくキレイなメロディラインは "brooklyn" あたりを思わせる。バーブラにはハマる楽曲がその通りにチョイスされたわけだ。フェイゲンはレコーディングにも organ で参加しているようだ。
 ゴールド認定の売れたアルバムのプロデュースはリチャード・ペリー。当時ゲイリー・カッツはペリーとともに Cloud Nine Productions を経営と資料にはある。が、当時既に大プロデューサーの片鱗を見せ始めたペリーにたいして、売れないフリープロデューサーだったカッツ_せいぜいプロダクションの番頭各だったのでは。ベッカー/フェイゲンの売り込みデモテープをどこからか入手したカッツが「悪くないよ〜」と思ったか、親分のペリーに紹介、そこでバーブラ・セッションに…という道筋といままでは理解していた、のだが…。
リチャード・ペリーのウィキを見た。すると経歴で_NYブルックリン生まれのペリー、ミシガン大学を卒業後に一時ソングライターを目指す、そのコラボ相手…の名はなんと「ケニー・ヴァンス」ではないか。しかし才能の無さを悟った? 転身してプロデューサーとして業界仕事を始め、67年キャプテン・ビーフハートのデビュー盤で同時にデビュー…と。翌年のタイニー・ティム盤のヒットあたりから運気が付いてくる。
 ヴァンスは、ジェイ&アメリカンズとしての活動と並行してリチャード・ペリーとのライターチームをやっていた。となればバーブラ盤は、いわば旧友の「持ち込み」…その結果とみるほうが正しそう。逆にそこからカッツがふたりの楽曲に興味を持ち始めたのだろう。やはりベッカー/フェイゲンにとってケニー・ヴァンスは恩人であったように思うのだが…。


kenny32.jpg

【Kenny Vance/ Vance 32】('75 Atlantic)
75年というからSDは『うそつきケイティ』を出した年か、ヴァンスはNY録音で初ソロを出す。ロスに拠点を移したB/Fは不参加だがエリオット・ランドールが参加。サルサのラリー・ハーロウやジャズ大御所ロン・カーターから、ジェイ&アメリカンズだったサンディ・ディーン/マーティ・クーパースミス、ラスカルズのブリガッティ兄弟、アンダース&ポンシアのふたりなどNYシーンの仲間など顔ぶれは実に豪華。プロデュースこそジョエル・ドーンとなっているが、演奏面での仕切りはアンティジア・ミュージックであるのは明白。tony levin, steve gadd, cornell dupree, richard tee, jerry freeman, willie weeks, grady tate, john tropea といったNYトップミュージシャン集めもアンティジアの発注だろう。
(Antisia Music : ビル・イートン/アーサー・ジェンキンズ/ラルフ・マクドナルド/ビル・ソールターの4人が組んだプロダクション)
 豪華なバックは事実だが、個人的には正直食い足りない感あり。歌が弱い。この人はコーラスの人とみるべきか、ドゥーワップなシンガーなのでソロに期待は無理筋なのかも。SD楽曲を2曲_ "Parker's Band" , "Dirty Work" 収録。前者、SDは74年『さわやか革命』でリレコしたが、もともとヴァンス・デモでやっていた古い曲。思い入れ深い楽曲だったのだろう、自身で「こう歌うべき曲なんだよな」と? 大物バックのなかにひとりだけ稀な名が_ John Mazzi 、1曲のみドラムを。マッジは前記「C:スタジオ・デモ録音」に参加していた名前。

ヴァンスの売り込みがさほど結果出ないなかで、ベッカー/フェイゲンはゲイリー・カッツの「誘い」に乗ってNYを離れる決意。カッツが、ロスのABCレコーズのスタッフ・プロデューサー仕事を受けた際に2人にも専属ソングライターとして雇い入れの誘い…と巷間つたわるところ。さてその時、ケニー・ヴァンスは…。う〜む逃げられたか!と業界的なゴタゴタをいままで想像していたんだが、「いやいや、よかったじゃないか。ロスへ行って一旗揚げろよ」と握手で別れ…であったかも?


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ロスへ移ったカッツ、ベッカー/フェイゲン。そこでも曲の売り込みは成果が出ず、カッツはふたりに自分らで歌うことを/バンド結成を進言したという。が、売り込みというには短い期間_カッツにもB/Fにも裏方仕事よりもバンドでの表舞台が既定路線だったのではないだろうか。その話でのロス行きだったように思える。早々に「デビュー」を飾るわけだから。
 さてバンドとなればB/F以外のメンバーはどうする? ギター、ダイアスは当然決まり。ロスから呼び寄せた?_いやいや、一緒にロス行きしたのでは。もうひとりのギターは…その席はエリオット・ランドールでしょう。B/Fは、ロス行きが決まった時点でダイアスとランドールを誘っていたと想像す。ダイアスは即OK、対しランドールの拒否_理由として想像するは、1:熱い西海岸が嫌いだった/2:あのふたりの曲…悪くないんだが一般受けはないんじゃね?バンドが売れるとは思えねぇよなぁと腰が引けた、などとこれも勝手な想像。ともかくランドールが来ないとなれば、フェイゲンは旧知スカンク・バクスターを誘ったんだろう。

(つづく)











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2017年12月07日

昔ラジオ

70年代TBSラジオ、日曜午後のワイドが若山弦蔵と八木誠で。とくに八木マコっちゃんは一番すきなDJであり音楽評論家だった。音楽誌でのマコっちゃんの推しレコはかなり買った記憶。忘れられないのは「イチにダンヒル、二にダンヒル、三四がなくて…五にダンヒル!」のフレーズ。ダンヒルをめっちゃ押していた人。これも買いましたヨ、日本のみのヒットとなった「ペイン(恋の傷跡)」はマコっちゃんが作ったヒット_グラスルーツ。





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2017年12月05日

lefty V

JIMI HENDRIX - Live
https://youtu.be/IkAyheJFaQE

70-7-30 ハワイ州マウイ島でのライヴで、映画『rainbow bridge』の一部らしいパフォーマンス。
ジミヘンのいいところは、個人的には熱狂のライヴでなくて冷静なギタープレイ…ブルージーなようで凡百のマイナーペンタに行かない/ソウルのハコバンで鍛えた指さばき。所謂ジミヘン・コードの妙。

この映像でちょいと驚く。Vの使用でその仕様_ギブソン・フライングV。Vを使っていたのは知っているがこのV、変じゃない? 普通じゃない。なのでネチってみた。これらしい。
トラスロッドのカバーが普通は白だがこれは黒。ロゴ位置が三角のトップも変。ポジション・マークが…こりゃトリニ・ロペス・モデルと一緒だろう、変。どうやら特注ですな。ギターに頓着なかったジミヘンにして特注がまず珍しいのでは。それよりなにより、これは唯一ではないのか(よう知らんけど)_「レフティー・モデル」。
 ジミヘンは「常に」右利きギターで、弦のみ逆張り使用だっただろう。それがトレードマークともいえた。左利き用リバース・モデルは見たことがなかった_なのでこのVだけ、じゃないの? 特注はやはり自分に「合った」形にしたということか。
 なぜジミは「右ギター」に拘ったのだろう。弦巻きもスイッチ類も逆位置はすごく不便そうなのに…。まあ考えれば、頓着なく次から次へ壊してゆくのだから、どの町の楽器屋でも買えなきゃ困る…数少ないレフティーなどに拘ってはステージが続けられない_だったんだろうが。
 それでも右ギターはそのままでは使えない_ひとつだけの問題はナット。弦の溝切りが逆。そこはどうしていたのかと思ったら、これはネットにあるが…「逆にしていた」らしい。フェンダーはもともとちゃちな作りだから行けるだろうがギブソンは逆では形状に無理ないか? そこだけはリペアに頼んでいたのだろうか。

この日、2ステージやったらしいが、それにしても鯉のぼりが…七月の鯉のぼりが揺れる揺れる、風の強い中でやりにくそう。来日もなかったしジミヘンとジャポニズムはリンクしたイメージまったく無いなかで、これは唯一かも。で、ファーストステージが白ストラト使用、セカンドステージがVだったらしい。一ヶ月ちょっとで逝くことになるジミヘン…。


Jimi_Hendrix's_Flying_V_Gibson_Guitar.jpg
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2017年11月27日

Kosh - T. Rex

レコードジャケット話。変形ジャケットのこと。
基本的に邪道と思う。Graphical でないから_平面デザインで勝負してこそのジャケットのはず。変形はほとんどが「3D」、立体物である。金をかければどこまででも出来てしまっては土俵が違うことになる。とはいえ、凝った仕様ゆえの「限定」は貴重/稀少でありコレクト心をくすぐられる。遊び要素/華美な仕様、抗いがたい魅力あるのは事実…。英語では Gimmick Jacket と呼ばれるそれ、過去に傑作数多し。幅も広く、単に穴開けだけから、素材からして逸脱したブツまで。動きや組み立てて超立体になる物も。そんな中、個人的に長いこと want list にアップしているのが3点_。

「アリス・クーパーのパンティ」。72年全米2位まで上がる大ヒットアルバム『school's out』、レコードが紙(不織布だったよな?)パンティに包まれていたこと、知らぬロックファンはいないだろう。ジャケ自体も汚れた「机」を模した変形だった。日本盤もパンティ盤にはなっていたが、どうしたんだろう?それは米国ワーナーから送らせたのだろうか。当時、アリス・クーパーに興味なかったために買わなかったが、いまになるとやはり「歴史に残るギミック」として欲しくもある…。が…、中古のパンティって…その意識が先に立つ、まあ入手することはないだろう。あっても時価でいかほど? 1万前後? ミント・パンティなら2万はしそう…。たしか3色あって赤いのが一番レアなんて言われていた記憶だが、さて。

お次は『Bob Marley & The Wailers / catch a fire』。UKオリジナルの「Zippo 変形」も欲しい1枚。紙仕様だがフタがちゃんと開くようになっている見事なギミック。可動のためにリベット打ち_紙と金属リベットは相性悪いので大半は紙が切れてしまう。ミントだったら2万に届きそう_入手ハードルは高い。

で、最後に挙げるのは…買った、Tレックス。
人気に陰りが見えだした74年盤『ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー』。離別は解体を意味することを分かっていたはずのボランの、ヴィスコンティとの最後の制作となった盤。
当方の追っかけデザイナー、ジョン・コッシュはこれと次作『bolan's zip gun』、2作のデザインを担当していたが、この盤では Special limited edition を作っていた。1000枚限定ナンバリング入りの変形ジャケット盤。レコード自体はあきらかにデヴィッド・ボウイ盤の二番煎じのコンセプトアルバムだったが、「檻」がキーワード…ということで、檻を模した型抜き三面追加変形は_1,2,3面と重ね方によって顔が変化する凝った盤_多くの変形ジャケを制作してきたコッシュらしい特別な仕様になっていた。
 コッシュ・ファンの当方的にはマストな盤だったが、いかんせん数が少なく相当にレア、ほぼオークションアイテムで、セットプライスでも4万前後という高値がついている。
 さてこのレア盤だが、2万円でヤフオクに出た。出品者はディスクユニオン。これは破格だ、思わず登録してクリックしようかと…。が、よくよく見れば檻が1本欠けた VGコンディション。う〜む、それでも安いか、どうしよう…かなり悩んだが。よくよく考えるに、これ買ってどうするの?誰に自慢する?…ま、それを言っちゃお仕舞いヨ/コレクションの根本否定でしょ_なんだけどね、やっぱもう断捨離時期入ってっから…いらないワと。
 諦めまして。けどネット見てたら面白いのがあって…。2001年にテイチクからの同盤CDが、通常盤ジャケットでなくてこのコッシュ作の限定盤ジャケを使ったリイシューであったことに気付く。ならば、せめて気分だけどもと思って、アマゾン/マケプにあったから¥1350で買ったんですワ。
 届いて超ビックリ…なんと紙ジャケでまんま変形コッシュ・デザインを再現していたとは! ジャケ表をリプリントしているだけだろうと、なんら期待していなかったから驚いた驚いた。さすがにニッポン制作、よくやった! サイズ縮小とはいえワタシャこれで十二分ね。中古じゃなくて新品?と思うほど_汚れはまったくなく、帯付きミントでこの価格…(超トンチンカンなライナーノーツは無視して…)満足デス。



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2017年11月25日

Peter Lewis

モビーグレイプとなると力がどうしても入ってしまうタチなんでこれも紹介。

モビーとして、メンバーソロ・ワーク、どちらにしろずるずるとした駄作続きというのが正直なところ。フリスコロックの肝であるライヴ…デッドやジェファースンと同時期にシスコの venue で鳴らしたはずのバンドなのにライヴ盤がかなりショボい、つまらないという意外も。おなじようにサイケデリア≠ナあったが、デッドら「幻覚派」に対してモビーは「覚醒派」だった…なんて評論もどこかにあったが。真実はよく分からないが、たしかに他のバンドとは違って交流も見当たらない、唯我独尊であった感あり。
結局モビーで聴くべき盤は、Columbiaのハウス・プロデューサーだったデヴィッド・ルービンソンが仕切って制作した(しらふでやらせた?)3枚_『moby grape』『WOW』『moby grape '69』この3枚のスタジオ盤だけ。
 その他ではせいぜいボブ・モズリーのソロ (same title) ぐらい。アレックス "skippy" スペンス盤『Oar』_「西海岸のシド・バレット」とは好き者に言わせておこう。

そんななかでこれが隠れ名盤。まあ知る人のない1枚だろう_ピーター・ルイスのソロ。
ピーターは、songwriter, singer, guitarist としてモビーの魅力の一翼を担った才人。意外や「いいとこの子」。大女優ロレッタ・ヤングの子でハリウッド育ち…、テリー・メルチャーと幼なじみであってもおかしくないようなボンボン。それは知っていたが、いまネットを見てみると_なんとデヴィッド・リンドリィが従兄弟とある。あのリンドリィも…実はいいとこのボンボンだったのか? リンダ・マッカートニー(リンダ・イーストマン:フィルム会社 KODAK 創業家)とは幼なじみであったらしい。
 そのピーターが95年に出した同名盤が至極良いのですワ。Taxim というローカルレーベル(ドイツ?)から出したCD。ex-CCR のスチュ・クック/Doobies のキース・ヌードセンがリズム隊で、モビーのメンバー時期もあったコーネリアス・バンプスも参加。ギター、ペダルなどマルチに活躍しているのが、この人も Doobies だったジョン・マクフィー。ポスト・プロダクション含めマクフィーが完全に仕切った1枚。ランディ・マイズナーやジョン・ヨーク (byrds) らもコーラス参加している。
モビー時代のリレコ2曲含めてすべてがオリジナル楽曲。駄曲なしの素晴らしい盤であり、マクフィーの貢献で仕上がりも抜群。なれど遅きに失した盤は、誰に語られることもなかった。

ピーターは絵も描く人らしくブックレットには淡いタッチから書き込んだ作まで掲載されている。モビー前のプロデビューバンド、The Cornells 時代のフォトも。
 この盤、オリジナルよりも日本盤のほうがいい。オリジナル・ジャケットは自画像だがこの出来が…どうにもぱっとしない。それを、97年に Kaigan Entertainment, Inc. という会社がなぜか日本発売したんだが、困ったジャケは別仕様に変更。自作画前の本人の顔を使ってかなりイメージの立ったよいデザインになっている。ブックレット内容もUSと変わらないようなので推しはこちら…とて、入手困難盤か?


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peter_lewis.jpg


(追記)
ブライアンをマインドコントロールしたかどでお縄になった?怪しい医師、ユージーン・ランディがそのず〜っと前に著したスラング辞書『アメリカ俗語辞典』(研究社)によれば_

moby grape : a syringe with a bulb on the end used for shooting drugs into a vein /静脈に麻薬を注射するために使う端にゴム球をつけた注射器(ゴム球は子供のおしゃぶりを利用する)

 …てなことから「覚醒派」、さもありなん。



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2017年11月23日

basil / ochs

佐野さんとのことでもうひとつ思い出した_スィートベイジル。
中山康樹さん。スイングジャーナル編集長から評論家へ転じて、マイルス/ビートルズ/ブライアンなどに関して多くの著作のあった中山さんも亡くなって3年か。
その中山さんと佐野さんは、ブライアン話で花が咲く仲だったんだろうな。で、2000年前後だったと思う、六本木芋洗坂のスィートベイジルのブッキング担当に中山さんが就くことになった。そしてそれまでのジャジーな路線からボップ路線へ変更、アメリカンポップ・ノスタルジア・サーキットのスケジュールで固めた。しかし苦戦…空席が目立っては塩梅悪いということで佐野さんへ「招待」の声を掛ける。一人ではどうもならぬ…「友人も」ということで当方も誘ってくれた。7〜8本はロハで観られたと記憶だが、さて…ゲイリー・ルイス&プレイボーイズは覚えているが他は?
 ネットを見てみたが過去スケジュールは出てこない。ロニー・スペクター、フィフス・ディメンションの名前がかろうじてある…どちらも観たな、きっと。ゆったりしたディナー&ライヴ・スペースに佐野さんらと足繁く_すっかり「常連気分」に浸れたことだけ覚えている。


その中山さんからひとつだけ仕事を受けた。VANDA のデザインを気に入ってくれての依頼はビーチボーイズ・ムック。2002年に河出書房新社からの『文芸別冊:ビーチボーイズ』。
巻頭にロニー・スペクターの特別寄稿あり、たぶんベイジルでのブッキングの際に書かれたんだろう。佐野さんはその中山さん/萩原健太とでフェイヴァリットBB曲・鼎談を。鈴木慶一/松尾清憲/湯浅学で『スマイル』鼎談など、いま見返せばなかなかに面白い内容。しばらく見る気にならなかったのは後味の悪さというか…中山さんはちょいと難しい人だった、デザインに関してゲラ出しのたびにいろいろと言ってくるので、当方としては「いや、ここの意図は…」と言ったつもりもかなり感情的に返してくるタイプ。どうやら、言うことを聞かない奴と最後は取られたらしく…。それでも見れば、自分のイラスト突っ込みなど、全ページを好きにやらせてもらってるか。表紙の写真。"Surfin' Safari" セッションのアウトテイク。かのマイケル・オクス・アーカイヴから買った。ネット上でのカタログからだったが、中山さんが「好きなの選んでいいよ」とのことで_。もちろん支払いは出版社、それなりな額だったんじゃないか…。


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